中国株を始めるためのキーワード。今回も中国株の歴史に触れながら、上海市にある「文化広場」について紹介します。
文化広場は上海市中心部の黄浦区(旧盧湾区)にあります。敷地面積は6万5000平方メートルで、2011年に再開発が完了し、いまは広大な緑地と巨大な地下劇場(座席数:2010席)となりました。株式市場とは何の関係もなさそうですが、実は中国で株式投資が過熱していた1992-93年に、ここが「文化広場証券交易大集市」と呼ばれる臨時の取引市場となっていました。ピーク時には80社あまりの証券会社が注文受付の臨時窓口を設け、1日当たり延べ4万人もの投資家が取引をしていました。当時の写真は人々の熱狂ぶりを物語っています。
投資家急増で店頭は大混雑、空き家の文化広場に「臨時取引市場」
文化広場が位置するエリアは昔、フランス租界でした。文化広場の前身はフランス商人が営むドッグレース場。新中国の建国後は政治集会の場となり、1970年には大規模な会場と舞台が建設されましたが、設備の老朽化などで1980年代以降はほぼ空き家の状態となっていました。
誕生から間もない中国の株式市場は、1991年10月当たりから初の本格的なブル相場を迎えました。上海総合指数は1991年10月の国慶節連休明けから翌1992年2月24日まで99営業日続伸を記録。値幅制限が完全撤廃された1992年5月21日には前日比105.27%高という驚異的な上昇率となりました。
株の儲け話が巷で広がり、投資家の数が急激に膨らむなか、委託売買を行う証券会社の店頭のキャパシティが大問題となりました。店頭は常にお客さんに溢れ、ラッシュ時の満員電車のような混雑ぶり。委託売買の注文伝票をカウンター越しで証券会社の営業員に渡すこと自体が “体力勝負”でした。当然、民衆の不満が募りました。
そこで、店頭のキャパシティの不足をなんとか緩和しようと、空き家の状態の文化広場に大規模な臨時取引市場を設ける構想が立ち上がりました。1992年6月1日、上海証券取引所の呼びかけで“取引所会員”である証券会社など二十数社が文化広場に集まり、投資家の注文を集中的に受け付ける臨時窓口を設けました。初日は開門前に4000人以上が集まり、開門すると民衆が一斉に場内に殺到して大混乱。収拾が付かなくなり、わずか30分で業務を打ち切る結果に追い込まれました。準備を仕切り直して6月9日に業務を再開。事故防止のため、1回につき入場人数を2000人に制限して当日の整理券を配り、身分証明証の確認といった措置も取られました。こうして文化広場での株式取引は1993年末まで続きました。
外地証券会社の進出ハードル下がる、全国に広がるマーケットが形成
店頭のキャパシティ不足を招いた大きな要因は、上海証券取引所の“取引所会員”の少なさにありました。取引所会員は「証券取引所に売買注文を出すことができる金融機関」のことで、投資家が手数料を支払って取引所会員である証券会社に注文を委託し、取引所会員が証券取引所に売買注文を出すのが委託売買の仕組み。中央政府が上海証取の創設を認めた承認書類に「上海市内で証券業を営む金融機関のみを会員とする」と定められていましたが、それが足枷となりました。『新華社』の報道によれば、上海証取の設立当日の取引所会員はわずか22社でした。上海市の証券会社4社と証券代理業務を営む「城市信用社(信用金庫)」十数社に加え、外地の金融機関が上海市に設けた営業拠点も追加し、なんとか掻き集めた数でした。
当時は金融機関が地域を跨いで展開するのは原則的に認められていなかったため、外地の金融機関が新たに上海市に拠点を設立する申請はほとんど却下されていましたが、1992年5月にようやく外地の金融機関による上海拠点の設立に関する「管理規則」が発表されました。審査が加速し、多くの外地の金融機関は上海拠点の設立が認められました。これらの金融機関はまずは文化広場に臨時の取引カウンターを設けました。机一つで注文を始めるカウンターも少なくなりません。文化広場の存在によって外地の金融機関が上海の証券市場に進出するハードルが大きく下がりました。
1992年に上海証券取引が承認した外地の取引所会員は122社に上り、同年末時点で外地の証券会社が上海に設立した営業拠点は108カ所に達した。チベット自治区、内モンゴル自治区、青海省、寧夏回族自治区を除いた省・自治区・直轄市の証券会社が上海に拠点を設立。上海証券取引所を中心として全国に広がるマーケットが形成さました。
証券営業拠点の増加につれて店頭の混雑も次第に緩和。文化広場の臨時取引市場は1993年12月24日に閉鎖となりましたが、全国規模のマーケット形成に歴史的な役割を果たしました。